2025年8月2日、フリーアナウンサーの栗村智(くりむら・さとる)さんが、慢性腎不全のため71歳で亡くなりました。
「声でプロ野球を描く」と称された名アナウンサーの訃報に、スポーツ実況ファン、ラジオファン、そして落語好きまで、さまざまな人々から追悼の声が寄せられています。
■ “声”の職人・栗村智という人物
栗村智さんといえば、やはり**ニッポン放送「ショウアップナイター」**の名実況で知られる存在。プロ野球の熱戦を、熱量たっぷりに、しかし冷静かつ的確に伝えるその実況スタイルは、まさに職人芸。リスナーの脳裏に「映像を超える情景」を届け続けてきました。
しかし、そのキャリアは決して順風満帆ではありませんでした。病との闘い、仕事への葛藤、そして新たな挑戦……。栗村さんの人生は、まるでドラマのように濃密でリアルな「人間の物語」だったのです。
■ 広島生まれ、中央大学出身。原点は“落研”だった
1953年、広島県広島市に生まれた栗村さんは、広島学院高校を経て、中央大学法学部に進学。
実はこの学生時代、彼は落語研究会(いわゆる「落研」)に所属し、話芸の世界に魅了されていきます。のちのキャリアで“落語プロデューサー”としても活躍する素地は、この頃から培われていたのです。
大学卒業後の1977年、ニッポン放送に入社。ここから、栗村さんの「声の道」が本格的に始まりました。
■ 野球中継とともに生きたアナウンサー人生
栗村さんの実況デビューは、1981年のヤクルト対広島戦。以降、「ショウアップナイター」で数々の名試合を伝え、名アナウンサーとしての地位を確立しました。
特に彼の実況は、臨場感と正確さの両立が魅力でした。派手すぎず、しかし熱く、そして確実に。選手の息づかいや球場の空気、スタンドのざわめきまで「音」で描き切るその技術に、多くのファンが魅了されたのです。
また、スポーツ実況に限らず、朝の情報番組や交通情報など、幅広いジャンルでも活躍。まさに“ニッポン放送の顔”とも言える存在でした。
■ 慢性腎不全、脳出血……病と闘いながらマイクを握り続けた
2006年、腎臓の病を患い、長期透析治療が始まります。一時はアナウンサー職を離れ、編成部門に異動するものの、「やっぱりマイクの前に立ちたい」という情熱が彼を突き動かしました。
そして2012年、「ショウアップナイター」実況に復帰。かつてのリスナーにとっては“帰ってきた声”として、大きな喜びと感動を呼びました。
しかし、2014年には脳出血を発症。入院とリハビリを経て、再び放送の現場に復帰するその姿に、多くの人が勇気をもらいました。
マイクの前に立つその姿勢は、まさに「声に命をかける男」だったのです。
■ 落語愛をプロデュースに昇華。退職後も“しゃべり”の世界に生きた
2013年に定年を迎えた栗村さんは、その後も嘱託として活動を続け、2018年に完全退社。その後、自らの個人事務所「オフィス栗好み(くりごのみ)」を設立し、フリーアナウンサー兼落語プロデューサーとして活躍しました。
学生時代から親しんだ落語をテーマに、寄席のプロデュースを手がけたり、自主企画の落語イベントを開いたりと、アナウンサーの枠を超えた“話芸の伝道師”としての顔を持っていたのです。
ラジオも落語も、すべては「声」の世界。そして、その魅力を誰よりも信じ、届け続けた人生でした。
■ 家族に見守られて──最期は静かに
葬儀は近親者のみで執り行われ、喪主は妻・妙子さんが務めました。
子どもについての公表はなく、ご夫婦で静かに暮らされていたものとみられます。病と共に歩んだ長い年月を支えた妙子さんの存在は、栗村さんにとって何よりの支えだったでしょう。
■ 栗村さんが遺した「声」は、今も耳の奥に残っている
ラジオの中継席、朝のスタジオ、そして寄席の舞台裏──栗村智さんは、どんな場所でも「声」と「言葉」で人の心を動かす人でした。
彼の実況を聞いて野球が好きになった人、朝の番組で元気をもらった人、落語会で新しい趣味を見つけた人。数え切れないほどの人々の“日常”に、栗村さんの声が寄り添っていたのです。
人はいつか去ってしまうけれど、その声は、ずっと私たちの中に生き続けます。
栗村智さん、ありがとうございました。
心よりご冥福をお祈りします。
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